Monday, September 21, 2009

偶然入った店で④

 和男は一瞬振り返って入ってきた客の顔を見たが、普通の背広を着て、しかしネクタイはしていずに、マスターに向かって「よお」と一言かけ、その声に呼応してマスターが「毎度」と言ったのだけが印象的だった。その客の男性は、和男の二つ隣のカウンター席に座った。その二つ向こうに二人男性が談話しながら酒を飲んでいた。
 その男性は
 「じゃあ、僕も生ビールにしようかな」
 と和男が飲んでいた生ビールをちらりと覗きそう言った。それに即座に
 「はい、かしこまりました」
 とだけ応えて、マスターはジョッキにビールを注いで、その男性の前まで持ってきて、再び調理場へと戻った。
 和男は暫くその男性の横顔を見つめた。どこかで見たことがあるような顔つきだと一瞬そう思えたからだが、即座には思い出せなかった。そしてただの気のせいかと思い直し、再び生ビールのジョッキに口をつけていると、彼が
 「ああ、思い出した。河井君、河合君じゃないか?」
 といきなり和男に声を横からかけてきた。その時和男は一瞬何のことかと思ったが、その男性の方に向き直ってその顔を見てみた時大学生時代に同じクラスにいたある男性のことを思い出した。
 「芝沢君じゃないか?」
 と和男はその男性の名前をその瞬間条件反射的に思い出し、そう言った。するとその男性は
 「そうさ、ああ懐かしいな、何年ぶりだろう?」
 と言った。そうなのである。その男性は河井和男と同学年で、同じクラスの名簿にあった男性で、確か彼の記憶によれば、テニス部に在籍していた芝沢勝彦だった。
 「俺のこと覚えていてくれたのか」
と芝沢が言ったので、すっかり彼の方を向いて、和男は
 「そりゃ、覚えているさ。君は結構同学年の女子からもてたからな」
と言った。
 「そうだったかな、あんまり昔のことなんで忘れちまったことも多いけれどね」
と言った。確かに芝沢は結構女子からもてたという記憶が彼にはあった。
 「そういう河井君こそ今何をしていんだい?」
と芝沢が質問してきたので、和男は
 「まあ、ちょっとブログに関してデザインとかしているんだけれどね」
と返答してからすかさず
 「そういう君こそ今は何をしているんだい?」
と聞いた。すると芝沢は
 「いやあ、僕も自宅でパソコンを使って色々なことをしているんだけれどね。いやあ、でも奇遇だなあ」
と言った。
 和男の記憶では芝沢は確か九州の出だった筈だ。しかし今はきっと東京近辺に住んで仕事をしているのだろうとそう思った。そこで和男は
 「今はどこに住んでいるの?」
と質問すると彼は
 「隣の駅のすぐ近くさ。君は?」
と言ったので、和男は
 「僕もここから少し南の方だけれどね」
と返答した。
 それにしても住んでいるところさえ結構近くじゃないか、そういうことっていうのもあるんだな、とそう思った。
 昔から和男はあまり大勢の中で一緒に加わって色々と楽しむことがあまり好きではなかった。しかしこの芝沢は彼とは正反対で、寧ろ一人でいることよりも、いつも誰かと共に行動するのが好きなタイプだった。それだけはよく覚えている。和男は名刺を持たないので
 「僕は名刺を作っていないので」
と言ったら芝沢は
 「俺だって名刺なんて使わないさ」
と応えた。
 「ところで河井君は結婚はしているの?」
と芝沢が聞いてきたので和男は
 「いや、俺は昔付き合った女性がいたんだけれど、結局結婚までは行かなかったな、だから今でも独身さ。君の方はしたの?」
と聞いた。すると向こうは
 「うん結婚しているよ」
と言った。それに対して和男は
 「そうだろうね、僕みたいなのってあまりもういないかも知れないね」
と言った。すると芝沢は
 「そんなことないと思うよ、俺の知る限り君みたいに今でも独身の奴も結構いるぜ」
と言った。
 それにしても和男はその時久し振りに同級生と会うなんて、そういうことがそれまで全くなかったので、ただ懐かしいという気持ちがしていた。確かに社会に出ると、同世代とか同郷出身であるとかの繋がりは意識的に確保しておかなければなかなか維持出来るものではない。しかしこうやって偶然会うと、やはりそれはそれで日頃あまりそういう関係が希薄になっているだけに懐かしさも蘇ってくる。そうである。懐かしいという感情とは昔がその時蘇ってくるということなのだ、とそう和男は思った。
 「そうだ、俺の住所と電話番号を一応書いておくよ」
と言って芝沢は自分の背広の内ポケットからメモ帳を取り出し、その一ページ分をちぎって、そこに今住む住所と、携帯の番号を書き記し、それを和男に手渡した。
 それを見て和男は彼はマンション住まいではないということだけは分かった。

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