Tuesday, February 1, 2011

大原で出会ったものとこと④女と膣

 和男は京都という街が極めて性に彩られていると直観していた。つまり古都であるとか各寺社や神社という神聖性とはあくまで表向きであり、京都の公家達による秘め事は、当然紫式部などによって「源氏物語」その他で描かれてきたし、そういった性の秘め事性への憧れが日本人に無意識に、否もっと本能的に京都へと足を向かわせる。後鳥羽天皇陵とはまさにそういった秘め事自体が遠い古の我々の祖先の辿った運命を暗示しているかの様に和男には思われた。
 和男は京都に来るまでの夜行バスや、そこから各名刹に来るまでに乗り継いできたバスその他で見かけた女性の一人一人のスタイルを想起しつつ、それらが夜にはどんな姿態で男に抱かれどんな嗚咽の様な悲鳴を上げるかを想像した。すると次第に又彼のペニスの先端が充血してくる。
 和男は道行く女性の顔から、大体どんな性生活を送っているかを想像することさえ出来た。愉悦の表情を多く経験している女性は道すがら歩いている姿でも何処か余裕がある。性の愉悦と、男性から肉体的に支配される喜びが女性に与える余裕は、取り澄ました表情にこそ表出する。しかも女性は歩く時に股ズレすることの中に密かに性的興奮を細微に味わい楽しんでいるのだ。女性の性欲は男性とは違う。何故なら女性の高まりは男性から支配されてきたという経験的事実への認知によって、膣と産道の膣壁自体から毀れ出る分泌液によって肌の色艶を決定している。そういう意味では歩く時もオフィスで座って仕事をしている時も実は女性は膣をパンティその他で包んで鎮座しているその姿勢から、既に膣の所有者として男性を見下している。それは膣自体への刺激、クリトリス自体への刺激自体が歩く時も電車に揺られている時も細微に感じ取れること自体が彼女等の幸福なのだ。それは既婚者であれ未婚者であれ変わりない事実である。
 しかもどんな下着で自らのヴァギナを包み込むかという選択が大いに彼女等にとっては大事な日常的行為なのだ。男性の場合街を歩く時勃起してしまうと表から目立つ。だからこそ性欲の処理が下手な男性と巧い男性とでは既婚未婚を問わず仕事に差が出る。つまりマスターベーションは自宅とかトイレでしか出来ない。
 しかし女性は違う。歩きながらも微細な快楽を得ることが可能だ。その為に態と毛糸のパンティーを装着して、心地よい大陰唇、小陰唇への刺激を楽しんだりして、彼女等は日頃から小さなマスターベーションをして精神を安定させている。それこそが女性の生きる智恵なのである。つまり下着の装着自体が彼女等の肉びらを心地よく刺激することで、たとえ夫や恋人は幾多の事情で頻繁に性行為に臨まなくても尚、その穴埋めをする智恵として下着の選択とは重要なことなのである。
 女とはまさに歩く性器なのだ。そしてどんなに濡れてきても外面的に男の様に目立つということがない。そこが女性の利点である。そしてその濡れ濡れ具体を吸収する具合のいい下着の選択ということが彼女等の至上命題なのである。だからよく観察していれば分かるが、下着売り場の女性の眼差しというのは真剣なのである。いい下着、自分と相性のいい下着の選択一つで彼女等の人生は陰鬱なものになるか、それとも快適なものになるかが決まるからである。
 勿論それはある程度いい女に限る。そういうことがどうでもよくなるということ自体が既に女性性の放棄以外ではない。だが当然のことながらブスでもセックスが好きな女はいる。しかしブスでも性的な喜びを知る女は何処か色艶はよくなるものである。それは外面からでも見ていて分かる。作りの良さだけでなく日頃の性的好奇心の如何で女性は美しくもなり醜くもなる。つまりいい女とは膣の濡れ具合に敏感で、それを誰に言うこともないが、秘め事として生活の心の糧にして、街を歩き、そのうっとりとした表情で道行く男性に視線的に直撃を受けることで、いい男の下半身を外面からの想像だけでもいいから直撃することを可能化し得たと実感することで、その勝利感の余韻に浸り、又日々の活力を得る、それが女性なのである。
 女とは歩く敏感感受装置、つまり歩く膣なのだ。そして京都は、特に大原の様な淫靡ではあるが、湿気の心地よい微風に肌を晒すことで過去のつまらぬ柵を掃除してくれる空気感とは、女の膣のバルトリン腺の様な香りを運ぶ日本人の本能的下半身的幸福を誘引する秘所なのである。