Wednesday, September 16, 2009

偶然入った店で①

 翌日和男はいつものように八時半に仕事場のマンションに出向いた。出勤時間はずっと変わりない。菊池真理は必ず九時ジャストに出勤する。それも一度も変わりなかった。そしてまず昨日から今日までの間に届いたメールチェックをして、仕事関係のメールを報告し合うことから始まる。
 途中バスの中で和男は昨日きちんと真理が帰宅しただろうかと思った。そんなことを心配したってもう相手は大人なんだから仕方ないけれど、いい女は男性から注視される機会が多いだろう。だから昨日は酒は一滴も混入していなかったが、店に出た時既に八時半にはなっていた。外は真っ暗になっていた。帰宅したらもう既に九時は過ぎていただろう。
 しかし意外と気さくな態度の女性だということだけは昨日の誘いによって判明した、これは案外脈があるかも知れない、と久し振りに和男は胸を密かに高鳴らせていた。
 今日出勤してきた時どんな態度を彼女は取るのだろうか、と思った。

 暫く昨日した仕事のチェックをしていたら菊池真理が部屋に入ってきた。そして和男の顔を見るなり
 「昨日はどうもご馳走になりました」
 とそう言って上着を脱いで、壁に吊るしてあるハンガーにかけた。その時ちらっと彼女の胸元がくっきりとした形で露になったが、意外と形のいいバストだな、と和男は思った。そう思った瞬間の彼のペニスは一瞬くっとあの得も言われぬかつて味わった快感を思い出すのであるが、それは一瞬で又引っ込むようなものである。そうでなければこれから一日仕事が出来ない。
 しかしやはり昨日彼女を食事に誘ったことはよかったと思った。それまでよりは色々と彼女に聞きたいこと(仕事のこと)に関しても、新しいいいアイデアを捻り出すことにおいてもよりスムーズに行くようになったからである。
 結局その日はかなり仕事がそれまでのいつの日よりも捗った。そして七時近くになると、真理はタイムカードをパチンと押して帰宅していった。
 
 和男は暫く残務整理があって、先ほどまでしていたイラストレーターとテキストボックスでの作業を一旦終えて、顧客名簿をチェックし始めた。エクセルは正直菊池真理の方が巧みだったが、未だ彼女にも見せられない情報も彼のパソコンにはあったのだ。
 しかし意外とその日はあっさりと残務は処理されて、いつもより(だから前日真理を誘ったことは例外的なことだった)早く、和男は一人で街をぶらついてみようかと思った。
 
 夕方はもう大分涼しくなってきていた。そろそろ冬物も取り出した、逆に夏物は整理しておかなければならない。独身だとそういうことも気遣わねばならないのである。
 しかしたまには一人で酒を飲むのもいいな、と思って和男は駅の反対側(いつもは殆ど行くことがなかった)へ出向くことにした。そういう風にいつも通る道とは違うルートを探索してみる、ということは思わぬ発見に結びつくことが、とりわけクリエイティヴな作業には求められるものなのだ。
 しかしやはり駅の向こう側へと来てみるといつも自分が知っている反対側よりは閑散としているな、という印象を拭えない。しかし和男はそういう閑散とした駅周辺の雰囲気自体は昔からそう嫌いではなかった。
 一瞬木枯らしが吹き荒ぶ今目の前にしている閑散とした景色の中で真理と二人で歩いている時いきなり向こうから抱きついてこられる妄想を和男はしたのだった。すると途端に昨日彼女のことを思い浮かべながら扱いた自分のペニスに残存している快感が一気に押し寄せてきた。しかしそういった妄想が楽しいのは、端的に未だ彼女と何の関係もないからなのである。そのことは痛いほど和男は知っていた。
 つまり恋というものはそれが想像の範囲を超えない内は心ときめくものなのである。恐らく和男と同世代の男性たちは殆どもうそういう気持ちにさえなれなくなっているに違いない、とそう和男は思った。もし家庭があって、既に早く子供が生れていたのなら、そういう同世代の男性にとって異性に心ときめくということが、ややもすると家庭を崩壊させかねないということを直観する人間は多い筈だからである。
 
 それにしても今日はいつもと菊池真理から漂ってくる匂いが少し違う気がした。ひょっとしたら、和男は自分に対してこれまでとは違った意識の仕方をしているので、つける香水も変えたのではないか、と自分に都合のいいように再び妄想をし始めた。
 
 そうこうしている内にある一軒の赤提灯が目に飛び込んできた。周囲に色らしい色の殆どない情景でその提灯の赤い色が鮮やかに目に映ったのだ。
 和男は少し躊躇したが、一度も入ったことのない店にたまには入るっていうのもそんなに悪いことではないな、と思い直し、その店のガラス扉を開け、暖簾を潜って中へ身を入れていった。すると中から威勢のいい声で
 「へい、いらっしゃい」
 と未だ比較的若い年齢のマスターの声がした。そちらの方を見てみると、三十四五歳の血色のいい男性が頭に鉢巻をして焼き鳥を焼いていた。他には調理場には誰もいなかった。
 和男はカウンターに腰掛けて、暫く目の前に置かれてあったメニューを眺めてから、店の全体へと視線を移動させた。すると再び向こうから「するめミックス」という言葉が目に飛び込んできた。そしてマスターに
 「あれ、するめミックス下さい」
 と言ったら、マスターは
 「はい、するめミックス一丁」
 と言って、一瞬屈み込んで冷蔵庫からイカを取り出した。

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