Monday, December 28, 2009

京都名刹を競演の後訪れる

 和男は自分の死について最近考えることが前よりは多くなった。五十近くなってそれは自然なことであろう。だがにもかかわらずその日のような性行為への執着も益々大きくなってきているようにも思える。それは死んだらもうそういうことは出来ないということに起因する。和男は下半身に残存していた微かな射精時の得も言われる快感の余韻をかみ締めながら、南禅寺水路閣やら禅林寺(永観堂)などを見て回ってから突如和男は大原の方に行きたくなった。そして蹴上駅まで一旦戻り、東西線でそこから烏丸御池まで乗りそこから烏丸線で国際会館まで地下鉄で行き、駅前バスターミナルから大原行きのバスに乗り込んだ。
 それにしてもセックスをした後にこうやって歩いて名刹を訪れるのは何と素晴らしい感覚なのだろう、と今更ながらに総一郎氏と君子夫人の夫婦に感謝の意を捧げていた。これから京都に訪れる度にこういうことがあったならどんなにいいだろう、とそう考えさえした。不謹慎かも知れないが、京都名刹などに訪れる心境それ自体はかなり性の愉悦に近いものがあるということが和男には実感された。
 確かに生殖に直接関わらない性とは虚しいとも言える。しかしその虚しさを贅沢に浪費すること自体は実は生きているということの証でもあるのだ。つまり虚しさを噛み締めることこそ生を性で満たすことから来る固有の快楽なのである。
 
 和男はバスに乗り込んでほどなく発車したバスから臨まれる車窓を眺めながら以前一度だけ訪れたことがあった大原だったのだが、その時感動したことを思い出していた。もう一度その日の気分では夕方に新幹線に乗り帰宅する前に一度訪問しておきたかったのだ。
 別所として知られる大原では天台宗の寺が主である。問跡寺院と呼ばれる皇族に生まれ天皇の御子として生を受けた大勢の人たちが皇位を継承し得ないことから昔から寺院と皇族との繋がりは大きかった。その一つなのが真言宗においては仁和寺であり大覚寺である。また浄土宗では先ほど和男が訪れた禅林寺もそうだし、知恩院などがそうである。そしてこれから訪れる三千院がまさにそうである。
 ウィキペディアに拠ると天台門跡としての三千院として次のように記述されている。

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。

比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもっていた。860年(貞観2年)、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を「円徳院」と称し、山上の寺院を「円融房」と称したという説と、「円徳院」と「円融房」は別個の寺院だとする説とがある。

1118年(元永元年)、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。坂本の円融房には加持(かじ、密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。最雲法親王は1156年(保元元年)、天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の地位)に任命された。同じ年、比叡山の北方の大原(現在の京都市左京区大原)に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。

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