車を発進させながら、バックを振り返り、君子は車庫から車を出すと、今度は向きを変えて、下り坂をゆっくりと降りて行った。そして東山の景色が遠くに平安神宮とか御苑が見渡せる地点から徐々に近景の方が目立つ地点へと降りて行った時に、右折して南禅寺や建仁寺の方へと車を走らせながら、君子は臨席にいる和男に対して
「和男さんはどんな音楽を好まれるのですか?」
と聞いた。すると和男は
「いきなり何故そんな質問をなさるんですか?」
と言って、考え直したようにして
「そういう君子さんこそどういう音楽をお聴きになられるんですか?」
と聞くと、彼女は
「まあ、その時の気分によりますわね」
と言った。
「気分と言うと?」
と和男は聞きなおすと、彼女は
「和男さんは沈んだ時ってどういう音楽を聴きたいと思いますか?」
と尋ねた。すると和男は
「そうですね、その時にもよるけれど、何とか気分を立て直すことの出来る時には意外と激しい音楽とか、底抜けに楽しい音楽を聴きたいと思いますけれど、そうではない、要するにそういう風に立て直すことの出来ない時には何も聴かないでいるか、聴くとしても意外と更に沈んだ音楽を聴きたいと思いますね」
と返答した。すると君子は
「私もどちらかと言えばそうですね、和男さんが仰ることと似ていますよ」
と言った。すると和男は自分でもそう言うとは思わないような台詞でもある
「私たち意外といい相性なのかも知れないですね」
と言っていたのである。それは昨日の夜にあった寝室での一件を考え合わせると実に意味深な発言である。しかしそんなことを一向に頓着しない返答の仕方で君子は
「そうですよ、そう思わなかったんですか?」
と言ったのである。そしてその時の彼女の表情が先ほど台所に食器を片付けていた時に彼女と擦れ違ってその時彼に示した愉悦の笑顔に似ていた。それは誘っている風情の笑顔である。それくらい和男には理解出来る。
そして和男は考えた。この女性は本質的に対人的に相手に期待を多くするタイプなのだろうか、と。つまりこう言える気が和男にはするからである。
人間にはある部分においては二通りある。それは演劇的人生を歩むタイプ、そしてもう一つは絵画的人生を歩むタイプがある、ということだ。前者はあくまで他者に対して愛情をあまりかけないけれども、相手に対してそれが関心のある他者であるなら同性でも異性でも期待を多くする。それはその者がする仕事でもそうだし、自分への愛情と言うことにおいてもそうである。要するにかなりナルシスティックなタイプの愛情家である。
しかし後者は前者のような鏡の前で自分の姿に見とれたりするような部分は皆無であるからアクター的ではない、寧ろ演出家タイプである。それも俳優を兼任しないようなタイプの演出家タイプ、脚本家タイプである。それは鏡の前で自分の姿に見とれないタイプである。そしてこのタイプは完全に他者に対して愛情が細やかではあるが、決して他者に対して期待し過ぎない、だから必然的に相手から竹箆返しを食らうことも少ない。つまり覚めたタイプの愛情家である。そして和男はどちらかと言うとそちらのタイプである、と自分でそう思っている。そして彼の父親は前者のタイプ、つまり演劇的人生のタイプだったと思っている。その部分では彼は母親から受け継いでいる。
だから和男はある時期かなり既に肺癌で彼が三十台前半に死去している父親の存在が鬱陶しく感じたものだったが、思い出してみると、懐かしくもあるのである。
つまりこの今隣に座って運転して「そうですよ、そう思わなかったんですか?」と言った女性がそのどちらのタイプなのだろうか、とそう思ったのである。
何故なら人間はある部分では極めて近似的部分があるから親しくなれるのであるが、その親しさが持続し得るためには、尤もそれはそういう風に望んでも巧く行かないことも往々にしてあるのであるが、少なくとも長く付き合えるタイプとは近似的部分がありながら、真逆である部分も必要であるからだ。
しかし今ここで重要なこととは、この女性は完全に人妻であるということだ。しかしそれにもかかわらず彼女は何か自分とこの私である和男との間の出会いがまるで運命でもあるようなことを示唆することをのうのうと言ってのけたのである。これは一体何を意味するのだろうか、そう和男は思った。そう思った時和男は君子の昨夜熟睡してしまう前までの濡れ濡った膣と大陰唇のン肉ビラの状態を想起していた。そしてその時の姿態の彼女と今冷静に運転している彼女の姿を何とか一つの像に結びつけようと努力していたのだが、ある部分ではどうしようもなくその二つがどんどん乖離していってしまうのであった。
それは何故だろう、と和男は思った。その時はたと和男は気づいたことがある。それはこの女性は夫から得る愛情と、和男のような通りすがりの中年男性(とは言え彼の方は恐らく年長であるが)から得る愛情を巧く区別して両方手に入れるタイプではないか、と思ったのだ。そうするとある意味ではこの女性は和男自身と同じでその女版である絵画的人生、つまりアクター的ではない演出家、脚本家的人生の女性ということになる。
しかしそうであればそれなりにこう解釈することも出来る。これから何が起きるかは分からないものの、きっと何かは起こる。そしてその後必ず和男は東京に戻るのである。もしそれ以上この奇妙な夫婦と何の関係もまく旅の恥は掻き捨て的な出来事であったとそれを只単なる過去であると処理していくような未来であるかも知れないし、あるいはそれとは逆に寧ろこのことを契機に和男とこの夫婦とが益々もっと深い関係へと結び付けられていくという未来であるかも知れない。それは和男にしてもこの女性もその夫も計り知れないことである。そう考えている最中に君子は再びこんなことを聞いてきた。
「多摩湖とか狭山湖には最近は行かれるのですか?」
いきなり昨日彼等が語り合った内容に引き戻すことをするその女性の真意を測りかねるといった風情の口調で和男は
「そうですね、最近ある私と同学年だった大学時代の友人とばったり会って、そいつと共に一緒にクラブに出かけたんですけれど、そこから少し行った所にある奴の自宅は確かそっちの方だったな」
と言った。何故そんな彼女の知らない芝沢のことなんかをここで持ち出す必要があったのかと後でしまったと思った和男だったが、実際のところそこで出会った茜とかママの幸恵とか杏子、あるいはその三人と偶然まみえることになる以前に最大の関心であり、今でも明日はその顔を拝めることになるという意味で想起出来る菊池真理のことが念頭にあったので、そういう一連の偶発的な最近の出来事がぽろりとこの自分の私生活のことをよく知らない旅先での妖しい魅力と湛えた中年女性の質問にそう無意識の内に返答していたということは自分ではよく理解出来ることでもあったのだ。しかし意外にも君子はその芝沢のことである「大学時代の友人」という響きに関心を抱いて
「大学時代のお友達ですか、そういう古い知り合いって懐かしいものですわよね」
と言ったのだ。それは社交辞令的な物言いでは確かになかった。よく理解出来るという言い方だった。
Saturday, December 5, 2009
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