Thursday, October 15, 2009

萱場総一郎氏との出会い(2)

 萱場総一郎氏との出会い(2)

 和男は萱場氏の電動車椅子から車へ、そして目的地に到着した後で、再び車から外部へ出ていくその逐一の動作にかなり手慣れた感じの印象を持った。それくらい頻繁に外出している身障者であることをその時彼は悟った。
 二人は境内に入り、各所の寺社を回って、最後に法堂の天井にある加山又造画伯の描いた雲龍図を拝観し、鑑賞した。しかし一箇所湿気で傷んで剥げ落ちている箇所があった。加山画伯のそこに絵を描いたのもそれ以前のものの傷みが酷かったためであると言われ、要するに空間的位置と、建築の仕方といった条件があまりよい状態ではないのだと和男はそう思った。
 ウィキペディアの2009年10月15日付けによると、天龍寺とは次のように記されている。

 天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786-850)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242-1246)とその皇子である亀山天皇(在位1259-1274)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

 かなりの有為転変を経験してきた地所であることをそこから読み取ることが出来る。和男に色々と説明しているところを見ると萱場氏は長年京都に住んできているのかと関心を抱き、和男は
「京都には長くお住まいなんでしょうか?」
と尋ねた。すると萱場氏は
「いえ、数年前に引っ越してきたんですよ。私が事故でこういう体になってから、色々と女房とも相談して、空気がいい場所を考えて、今は東山の方に住んでいるんですよ、これから河合さんも連れて参りますから、お分かりになられると思いますけれど」
と言った。その言葉が本当なら、萱場氏は比較的最近までは健常な身体の持ち主だったことになる。つまり六十歳くらいの時にそういった事故に遭われたということになる。
「かなり長いこと曲芸のお仕事をなさっておられたんですね」
と和男はそう言うと萱橋はにこやかな表情で
「そうなんですよ。私もその時までは若い頃のまんまの気持ちでそういう仕事をしてきていたんです。でもある時、やはり私も大分衰えていたんでしょうね、肢を滑らせてしまったこのざまになったってわけですよ」
と言った。
 確かに人間とは記憶の上ではいつまで経っても若い時のままであるが、確実に年齢とは人間の生活の上で老いを忍び寄せてきているのだ。それは確かに昨今和男も感じ取っていた変化である。つまりそのことに対して精神的な勢いでもってカヴァーしているのである。同じような人間的気迫のようなものを、最初に和男に語りかけてきた時から和男はこの萱場氏に対して感じ取っていたのである。だからこそ相手から自宅に来ないかという誘いに和男は快諾したのだった。
 和男は既に仕事に使用するつもりである写真は清涼寺と大覚寺において撮っていたので、これ以上萱橋氏の車で連れ来られたその天龍寺では写真を一枚も撮らなかった。萱場氏との対話をしながら歩いてきていたので、それはそれで一向に構わないと和男はそう思っていた。

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