Thursday, October 22, 2009

萱場総一郎氏との出会い(5)

 和男は毎年のようにあの周辺の桜を見に出かけている。だったら、ひょっとしたら、一度くらいこの萱場君子と擦れ違うくらいしているかも知れない、そう思うと思わず親近感が押し寄せてきた。
 それにしても最初主人から自分へと紹介された時少なくとも彼女の年齢は萱場氏が六十五歳前後であることは確かなので、それよりはどう見積もっても、十歳くらいは若いと思っていたが、それはかなり彼女の面持ちから物腰全体に至るまで妙に落ち着いていて、精神的な重量感があるからだったが、こうして座って相対して話していると、意外ともっと若い年齢であるということが確認出来た、と和男は判断していた。そうなのだ、恐らく彼女は自分よりも更に八歳くらいは若い、従ってあの芝沢と共に訪れたクラブのママである幸恵ともそんなに変わらないくらいの年齢だとそう思った。
 しかしそれなのに最初この女性にはどこか慰安を感じさせるところがあるということは、それだけ人生的には精神年齢を重ねさせるものがあったということを意味する。
 通常ティーンエイジャーとか二十代前半と言ったら、殆ど頭の中はセックスのことだけである。それではいけないと自己規制して崇高な論理とか倫理に憧れていてさえ、そういう意志決断するということ自体に既に潜在的には性への飢えを持っているということを証明している。従ってそういう年齢を通過していくと自然とセックス体験を有することになるのが普通の若者のケースであろう。そうではなくて生涯童貞や処女を守り通しても、それ自体が弊害にはならないようなタイプの人は極めて少ない。どこか歪んだ性格にもなっていくことも多い。しかしそういう性的な充足感の欠如を穴埋めしてくれるような大人な態度の異性と男性が出会うことは精神的にはかなり大きなことである。その相手が自分よりは通常年上であることの方が多いが、極稀に年少者である異性にそれを感じ取ることもあるだろう。つまり君子には和男にとってではあるが、そういう風に自分よりも年少であるのにもかかわらず、彼の人生の苦渋を優しく包み込んでくれるようなタイプの慰安を極自然に醸し出させている、そんなところがあったのである。これは男性的な毅然とした中性的、ユニセックス的性的魅力である菊池真理にはないものだった。しかしそうであるが故に和男にとっては菊池真理のようなタイプこそ最終的にゲットしたいと思う価値ある異性でもあったのだ。つまりその途中のプロセスにおいて君子のようなタイプの女性がいてくれると勇気を持って菊池真理へとアタック出来るのに、と勝手にそんなことを頭の中で思い描いていた。そして今目の前にいる萱場君子には、ティーンエイジャーに接する三十女のような感じで、五十になる和男を誘導してくれるような心の余裕を和男は感じ取っていたのである。
 和男は更に多摩湖や狭山湖の話題を続行させ
「奥さんは多摩湖や狭山湖にも毎年行かれているんですか?」
と質問すると即座に君子は
「いえ、毎年じゃ御座いませんわ。でも一昨年は行きましたわね、その友人と一緒ですけれどね」
と言った。すると和男は更に
「では去年はどちらに行かれたんですか?」
と聞くと、君子は
「去年は千鳥が淵に行きましたね。それからこちらでは大原の方にね」
と言った。
「千鳥が淵は私もよく行きますね。でも大原の桜もいいですかね?」
と和男が聞くと君子は
「観音堂前などはなかなか壮麗ですわね」
と奥ゆかしい態度でそう言ったのだった。

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