Thursday, October 8, 2009

休日なのに仕事をしている午前中に京都で考えたこと②

 和男は小学校の三年生から大学を卒業するまで横浜に住んだ。そして大人になって東京に一人で住むようになるまでその横浜の実家だけが帰るところだったが、小学校の五年か六年の時に修学旅行で京都に行き、更に大人になって二十代後半くらいにやはり仕事で京都へ行った。しかしその時にもまだ京都駅は今のように立派なステーションへと改築されてなかった。もっと閑散とした駅前だったように記憶している。まさにこれから駅前の再開発がスタートするというところで一回その当時の京都を東山や嵐山の方へと仕事で方々訪れたのである。当時彼は肉体労働をしていたのだ。つまり渡り労働者である。
 彼が出版社とかデザイン会社へと勤めるようになったのは、三十代前半の頃のことである。それから今しているようなタイプの仕事の技能を彼は身につけていったわけだ。
 それにしても茜からビートルズの話が出るなんて意外だった。しかもきちんと彼らにおける自分の好みも言えるくらいには知っているということが、和男にとって自分とは離れた世代であるのに、意外だったし、ビートルズが好きである彼には嬉しくもあった。
 だから退屈していた新幹線の車内で撮った写真を確認するために持ってきていたパソコンでユーチューブをネットで開いて「サムシング」のフィルムクリップとか、映画「レット・イット・ビー」を聴いて紛らわさせたのだが、その時改めて感じたこととは、彼らの音楽が熟成していくのは、個々の名曲ナンバーとは関係なく、やはりインド行きの直前くらいからであるということだった。そして解散して四人は個々の音楽を追求していくのだが、1974年くらいまでは四人ともビートルズの持っていた後期の音楽のテイストを携えていた。ジョンの「マインドゲームス」やポールの「バンド・オン・ザ・ラン」、ジョージの「ダークホース」、リンゴの「リンゴ」くらいまでである。しかしその後、彼らは個々の音楽の追求のために、あるいは時代の変遷のために次第に別の方向へと散って行く。それは致し方ないことである。つまりそれは男性と女性の出会いと別れにも言えることだからだ。
 和男も三人くらいの女性との親しい日々と別れる日、そしてその後を経験していた。その頃のことを追想しながら、嵐山の道筋を歩いた。そう思うと昔好きだったビートルズの後期の音楽が意外と京都嵐山には似合うと、そう和男は思った。しかし一年前にやはり仕事で訪れた東山は、その日少し霧雨の日だったことも手伝って、また違った音楽が似合っているとそうその時は感じたものだった。そうである、ああいう日の東山、哲学の道を歩いたりするのには、エリック・サティの「ジムノペディ」なんかがいい、とそう和男は道すがらそう思った。
 そんなことを考えながら歩いていると、清涼寺の境内の入り口の正門が見えてきた。そこには清涼寺と立派に掘った部分に白いペンキで塗られた文字が正面に見えてきた。そこは嵯峨釈迦堂とも呼ばれ浄土宗の寺であり、融通念仏の道場としても知られている。かつてそこは比叡山延暦寺と対抗しようという西の側からの東への意図もあったと言う。1467年から1477年の十年間の応仁の乱のいつかの時期において伽藍は消失してしまうものの、乱収束後である1481年、つまり四年後には再興された、と言う。
 境内に入ると、椅子が手前に置かれてあったので、そこに腰を下ろして、和男は肩に背負っていたバッグから一眼レフのデジカメを取り出し、境内を様々な角度から写真に収めた。

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