Tuesday, February 1, 2011

大原で出会ったものとこと④女と膣

 和男は京都という街が極めて性に彩られていると直観していた。つまり古都であるとか各寺社や神社という神聖性とはあくまで表向きであり、京都の公家達による秘め事は、当然紫式部などによって「源氏物語」その他で描かれてきたし、そういった性の秘め事性への憧れが日本人に無意識に、否もっと本能的に京都へと足を向かわせる。後鳥羽天皇陵とはまさにそういった秘め事自体が遠い古の我々の祖先の辿った運命を暗示しているかの様に和男には思われた。
 和男は京都に来るまでの夜行バスや、そこから各名刹に来るまでに乗り継いできたバスその他で見かけた女性の一人一人のスタイルを想起しつつ、それらが夜にはどんな姿態で男に抱かれどんな嗚咽の様な悲鳴を上げるかを想像した。すると次第に又彼のペニスの先端が充血してくる。
 和男は道行く女性の顔から、大体どんな性生活を送っているかを想像することさえ出来た。愉悦の表情を多く経験している女性は道すがら歩いている姿でも何処か余裕がある。性の愉悦と、男性から肉体的に支配される喜びが女性に与える余裕は、取り澄ました表情にこそ表出する。しかも女性は歩く時に股ズレすることの中に密かに性的興奮を細微に味わい楽しんでいるのだ。女性の性欲は男性とは違う。何故なら女性の高まりは男性から支配されてきたという経験的事実への認知によって、膣と産道の膣壁自体から毀れ出る分泌液によって肌の色艶を決定している。そういう意味では歩く時もオフィスで座って仕事をしている時も実は女性は膣をパンティその他で包んで鎮座しているその姿勢から、既に膣の所有者として男性を見下している。それは膣自体への刺激、クリトリス自体への刺激自体が歩く時も電車に揺られている時も細微に感じ取れること自体が彼女等の幸福なのだ。それは既婚者であれ未婚者であれ変わりない事実である。
 しかもどんな下着で自らのヴァギナを包み込むかという選択が大いに彼女等にとっては大事な日常的行為なのだ。男性の場合街を歩く時勃起してしまうと表から目立つ。だからこそ性欲の処理が下手な男性と巧い男性とでは既婚未婚を問わず仕事に差が出る。つまりマスターベーションは自宅とかトイレでしか出来ない。
 しかし女性は違う。歩きながらも微細な快楽を得ることが可能だ。その為に態と毛糸のパンティーを装着して、心地よい大陰唇、小陰唇への刺激を楽しんだりして、彼女等は日頃から小さなマスターベーションをして精神を安定させている。それこそが女性の生きる智恵なのである。つまり下着の装着自体が彼女等の肉びらを心地よく刺激することで、たとえ夫や恋人は幾多の事情で頻繁に性行為に臨まなくても尚、その穴埋めをする智恵として下着の選択とは重要なことなのである。
 女とはまさに歩く性器なのだ。そしてどんなに濡れてきても外面的に男の様に目立つということがない。そこが女性の利点である。そしてその濡れ濡れ具体を吸収する具合のいい下着の選択ということが彼女等の至上命題なのである。だからよく観察していれば分かるが、下着売り場の女性の眼差しというのは真剣なのである。いい下着、自分と相性のいい下着の選択一つで彼女等の人生は陰鬱なものになるか、それとも快適なものになるかが決まるからである。
 勿論それはある程度いい女に限る。そういうことがどうでもよくなるということ自体が既に女性性の放棄以外ではない。だが当然のことながらブスでもセックスが好きな女はいる。しかしブスでも性的な喜びを知る女は何処か色艶はよくなるものである。それは外面からでも見ていて分かる。作りの良さだけでなく日頃の性的好奇心の如何で女性は美しくもなり醜くもなる。つまりいい女とは膣の濡れ具合に敏感で、それを誰に言うこともないが、秘め事として生活の心の糧にして、街を歩き、そのうっとりとした表情で道行く男性に視線的に直撃を受けることで、いい男の下半身を外面からの想像だけでもいいから直撃することを可能化し得たと実感することで、その勝利感の余韻に浸り、又日々の活力を得る、それが女性なのである。
 女とは歩く敏感感受装置、つまり歩く膣なのだ。そして京都は、特に大原の様な淫靡ではあるが、湿気の心地よい微風に肌を晒すことで過去のつまらぬ柵を掃除してくれる空気感とは、女の膣のバルトリン腺の様な香りを運ぶ日本人の本能的下半身的幸福を誘引する秘所なのである。

Thursday, May 6, 2010

大原で出会ったものとこと③

 途中で彼は、後鳥羽天皇陵がすぐ近くにある筈だということを既にウィキペディアなどで以前やはり京都で仕事で来た時に回れなかった大原の事を帰宅後にインターネットで検索した時ある事を知っていて、ふとそのことを思い出し、もう一度引き返して箒で境内を掃除していた勝林院のおじさんに聞くことにした。
 「後鳥羽天皇陵はこの近くだと聞いているんですが、どちらなのですか?」
 するとその老人は私の質問に一瞬箒で地面に落ちた紅葉を掃くのを止め
 「ここですよ。」
 と三千院へと向かう坂道の左手を指差し、こんもりとした森になっている背後の手前にある何か白い塀のような石が見えたものはそれである、と示した。
 和男はそちらに行って見ることにした。この天皇陵は明治時代に建造されたらしい。
 しかしその厳粛な雰囲気の天皇陵を前にしてショルダーバッグから取り出したデジカメの一眼レフで正面からそれを撮影すると、急に若い頃の性経験のことが思い出された。先ほどまで奇妙な壮年夫婦の相手をしていたことと、その天皇陵の厳粛な雰囲気は和男のペニスの淡い炎症が収束していく時のえも言われぬ快感と相まって青年期のセックスに纏わる記憶を引き出したのかも知れぬ。
 それは初めてに近い経験として二十代初頭に本番をするソープランドに赴いた時のこと、そしてそれらからややあって三〇代になってから目黒で現在はデリヴァリーヘルス嬢と呼ばれる、かつてはホテトルと呼ばれた女性を買った時のことである。
 神田にあった(今あるかどうかは確めてもいないので和男は知らないでいたが)本番なしのオスペのソープランド、当時は未だトルコと言っていた店に何度が通い詰めて、そこでは性欲を発散する事自体は可能だったが、何せ挿入が出来ないということを知っていたので、もう少し高額料金のきちんと本番が出来る店に繰り出した(場所は既に忘れいてたが東京都内、或いは横浜であったことだけは確かだ)時に相手をした中年女性、恐らく今から考えれば自分が若かったから年取って見えたが、今の自分よりは大分若い三〇代後半の女性だったと和男は想起しながら、記憶からその当時のそのプロの女性の年齢を引き出そうした。
 その女性はフェラチオをした後で、彼のペニスを自分が正常位で下敷きになりながら、手を宛がって挿入するように導いた後、腰をグラインドさせだした和男の下半身の動きに呼応するかの様に自らも膣圧をかけて臨みながら、一瞬次の様に呻いたのである。
 「あんた、大きいおちんちん!」
 その中年女性の膣は極めて日本的なぬめっとした感触だったことだけはよく覚えていた。最近のプロの女性と違って当時のプロの女性はしっかりと陰毛を生やしたままにしていたことも和男は覚えていた。和男はその一言でペニスの膨張を更に鼓舞された気持ちとなり、何としてでも年配の女性をまるで後家殺しの如くアクメへと導くべく努力して下腹部に力を込めてピストン運動を重ねていったものだった。思えば、セックスの最中に「腰を使うのよ」と教えてくれたのは彼女だった。その経験はその後の和男のセックスライフに多大なエキスとなったことは確かだった。
 そしてその時のことに対する想起は、連鎖的にそれから数年後既に三〇代になっていた和男がキャバレー勤務をして帰路に、目黒駅近くのラヴホ内の公衆電話でホテトル嬢を手配するように指示してやってきた若い女性(本人は24歳だと言っていた)が健康美溢れる女性であったことも思い出していたのだ。
 その女性の膣の周辺は和男がクンニリングスをした時に程よい汗の匂いがした。ややどどめ色になって鈍い反射光を示してはいたが、膣内は極めてサーモンピンク状だったことを鮮明に記憶している。その女性は当時の和男よりも七歳位若かったが、心の中でそのたっぷりとした抱擁力から、目下なのに「ママっ!」と叫んでいた。膣内でコンドームを装着していたにも関わらず精子を一気に彼女のアクメを見計らって精液溜まりに放出する事自体の愉悦に母乳を欲しがる赤ん坊の気分に戻ってまるで母親と交わっている感慨すらあったのである。
 和男は果てた後にゆっくりと彼女の膣から竿を抜き出すと、その時彼女が
「早く三十歳位になりたい」
 と言っていたのも印象的だった。
 その時既にコンドームを外し、ぬるぬるとした自らの切っ先をやおら枕元に置かれてあったティッシュペーパーに彼女が拭き取ってくれた後で、彼女がベッドの脇に置いてあった、それまでセックスをする為に脱いでいたパンティーを装着し出すと、その姿を見て和男のペニスは再びむくむくと勃起し始め、それをあざとく察知した彼女はパンツを履いた上から彼女は優しく手のひらで撫でたのだ。そして
「もう、こんなになって」
 と和男の下半身の勇姿を見て頼もしい男性に抱かれた事を光栄に思うような、世辞でもあったかも知れぬが、若い女性固有の配慮を和男に示したのだ。
 その時和男は嬉しいと思った。
 そういう女性の言葉とは男性の意気を精神的に高揚させるものである。その時和男は女性というものは男性から抱かれる前に、余り男性に中年夫婦の妻が夫に発言する様な本音を言ってはいけないとそう思った。何故なら男にとって性欲欲情をいい形で愛する女性へ発動することが可能となる条件の内で最も大きなものとは、慎ましやかさであると思うからである。
 男から抱かれる事を付き合っているのだから当然と思って、抱かれた後の倦怠期を迎えた男女の様な会話内容をすることだけは男女の間柄では、少なくとも性的な結合を控えている事に於いてご法度である(同じことは男が相手の女性へと取る態度でも当て嵌まることである。このことは人間が本質的に他者に対してこちら側への過剰な配慮を決して求めてはいけないということを示してはいないだろうか?自信、情熱、自己主張は常に控え目に、ということであろう)。
 男とは余り同性同士のような親しげな態度を異性から取られると、少なくとも肉体関係を取り結ぶ以前の段階では、がっつく女性であると踏んで相手に幻滅してしまうものである。そういった女性たちをその二つの体験より以前に和男は二人ほど知っていたのだ。
 最初に思い出したそのソープランド嬢は既に六十をとおに超えて当然そういう世界からは引退していることであろうし、五〇を目前とした和男より七歳位若いホテトル嬢も既にいいおばさんになっている筈だ。彼女は凄く健康的だったので、恐らく哺乳類の動物の様に交尾をして沢山の子供を産み授かっているに違いない、とそう思った。
 しかしそういう風に若い頃に味わった性的ないい経験の相手というものは、たとえ仮に街でばったり顔を合わせて気付きもしないままで終わるだろうが、和男の中では感謝の気持ちで一杯である。所詮人生他者との間での思い遣りである。それだけが後年にいい思い出となるのだ。想起を甘酸っぱい気持ちにさせるのは、心地よい異性との性体験である。

Thursday, January 14, 2010

大原で出会ったものとこと②

 和男はその椅子に座り暫くその木彫の細工を眺めてから今度は眼を瞑って瞑想をした。
 和男は濃密な一日は長く感じる、とそう思った。一昨日久し振りに大学を卒業して以来会っていなかった芝沢と出会い、茜たちの働くクラブに行ったのだ。そして今こうして昨日訪れた京都大覚寺において知遇を得た萱場総一郎氏と君子夫人と間で殆ど即興的な性の競演を果たして今こうして一人勝林院に赴いているのだ。二日前にその前日一緒に初めて食事をした菊池真理のことさえ何故かかなり昔に知り合った他者のようにさえ思えてしなうここ数日の出来事だった。いやあの幸恵ママと杏子や茜という存在もその時点では神秘的に思えた。つまり中年男性の欲望をそそるが決してそういうことへとはそう容易には運ばないことを知っていればこそ楽しい会話の一時であった。しかしその翌日和男はひょんなことから見知らぬ夫婦間の性戯の道連れにされたのだ。そうなってしまうと、今度はそれまでは想像もしていなかった幸恵や杏子や茜に対する「現実の姿」としての女性の日常生活とか夜のことなどが妙に具体性を持って想像されてしまうのである。つまり昨日からの一続きの総一郎氏と君子夫人との間の痴態的一件が和男にとっての菊池真理、幸恵ママ、杏子、茜に対する神秘性を一気に打ち砕いたのである。ここで一人霧雨が晴れて徐々に快晴へと転換しつつあった先ほどまでいた南禅寺界隈とは全く異なった雰囲気の快晴を味わっていた。一度大原三千院へと赴く小道の手前でバスが終点で停車した時、その小道の右脇に流れている下水が清水のように透き通っていたが冷たく感じられるくらいに再び山へバスが登るに従って曇ってきていたのだ。
 しかし勝林院に拝観する頃再び太陽の光が固有の杉木立に差し入ってきていたのである。
 和男はぶらぶらと杉木立の方へ行こうとすると、途中で土木工事をしている台車を運んでいる作業員の中年男性に
「ここから先はどこへ行くんですか?」
と聞くと男性は
「ただ檀家のお墓があるだけですよ」
と言った。和男はそれ以上先に進むと大原の名刹とは関係のない場所へ行くと知ると再び勝林院の本堂へと戻り、暫く庭園を眺めた後、そこを後にして緩い坂を上り、三千院の方へと戻って行った。

Wednesday, January 6, 2010

大原で出会ったものとこと①

 大原は修行していた僧侶や尼僧たちが修行から脱走して、駆け込んでいった先であるが故に裏比叡と呼ばれ、別所と名指されていた。要するに京都という街は、ある意味では伝統と革新が共存している土地柄であることの最大の理由としても、神格化された世界と、その内実において性的虚飾も十分兼ね備えてきたことが物事の表裏を感じさせるというところに複雑なリアリティがある。
 和男はさきほどまでの性的競演が一体自分の人生にとって何を意味するのかということを考えていた。それは勿論夫婦や恋人との性行為とも違うから、端的に生きている者同士の性的友情と言えた。
 つまり今自分が行こうとしている先にはそういう性的友情をも育んできたということを既に京都へ訪れる以前からずっと和男の念頭にはあった。
 バスは途中で列車の走る橋の下を潜ったりして、くねくねとした山道を行き、大原三千院などへと登る道の入り口に近いバスターミナルに到着した。その道を徒歩で登りながら、右側を流れる比較的綺麗な水の流れを自分の袂に感じながら、和男は自分の人生の中でついた灰汁とか滓も全てそこに流していまいたかった。勿論あまりにも自責の念に駆られる過去があったわけではない。しかし幾つかの胸を未だに痛めさせる思い出もないではなかった。それくらい誰にだって後悔という形まで行かないまでも持ち合わせていることだろう、そう和男は思った。しかしそんな風に他人も恐らく、などと考えることに今意味はない。まず自分である。
 十二三分で三千院の表玄関の下まで辿り着き、初めにまず勝林院に入った。三百円と安い拝観料である。その本堂の奥にある杉林も惹き込まれる雰囲気があった。本堂の屋根の裏にある木彫の細工がよく見える箇所に椅子が置かれてあった。

Monday, December 28, 2009

京都名刹を競演の後訪れる

 和男は自分の死について最近考えることが前よりは多くなった。五十近くなってそれは自然なことであろう。だがにもかかわらずその日のような性行為への執着も益々大きくなってきているようにも思える。それは死んだらもうそういうことは出来ないということに起因する。和男は下半身に残存していた微かな射精時の得も言われる快感の余韻をかみ締めながら、南禅寺水路閣やら禅林寺(永観堂)などを見て回ってから突如和男は大原の方に行きたくなった。そして蹴上駅まで一旦戻り、東西線でそこから烏丸御池まで乗りそこから烏丸線で国際会館まで地下鉄で行き、駅前バスターミナルから大原行きのバスに乗り込んだ。
 それにしてもセックスをした後にこうやって歩いて名刹を訪れるのは何と素晴らしい感覚なのだろう、と今更ながらに総一郎氏と君子夫人の夫婦に感謝の意を捧げていた。これから京都に訪れる度にこういうことがあったならどんなにいいだろう、とそう考えさえした。不謹慎かも知れないが、京都名刹などに訪れる心境それ自体はかなり性の愉悦に近いものがあるということが和男には実感された。
 確かに生殖に直接関わらない性とは虚しいとも言える。しかしその虚しさを贅沢に浪費すること自体は実は生きているということの証でもあるのだ。つまり虚しさを噛み締めることこそ生を性で満たすことから来る固有の快楽なのである。
 
 和男はバスに乗り込んでほどなく発車したバスから臨まれる車窓を眺めながら以前一度だけ訪れたことがあった大原だったのだが、その時感動したことを思い出していた。もう一度その日の気分では夕方に新幹線に乗り帰宅する前に一度訪問しておきたかったのだ。
 別所として知られる大原では天台宗の寺が主である。問跡寺院と呼ばれる皇族に生まれ天皇の御子として生を受けた大勢の人たちが皇位を継承し得ないことから昔から寺院と皇族との繋がりは大きかった。その一つなのが真言宗においては仁和寺であり大覚寺である。また浄土宗では先ほど和男が訪れた禅林寺もそうだし、知恩院などがそうである。そしてこれから訪れる三千院がまさにそうである。
 ウィキペディアに拠ると天台門跡としての三千院として次のように記述されている。

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。

比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもっていた。860年(貞観2年)、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を「円徳院」と称し、山上の寺院を「円融房」と称したという説と、「円徳院」と「円融房」は別個の寺院だとする説とがある。

1118年(元永元年)、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。坂本の円融房には加持(かじ、密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。最雲法親王は1156年(保元元年)、天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の地位)に任命された。同じ年、比叡山の北方の大原(現在の京都市左京区大原)に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。

Wednesday, December 16, 2009

競演が終われば

 和男はそういうほんの一瞬の愉悦のためにのみ人はピストン運動や全身に汗をかくことを好んでするのだな、といつも性行為の後にそう思う。
 彼はその種の行為の事後起こる固有の虚脱感、虚しさ、倦怠が好きだった。何とも言えない空虚感がたまらなく好きなのである。何故なら性行為の後ほど人間は哲学的になれる瞬間などそうあるものではないからである。
 恐らくどんなに哲学的センスのない奴でもセックスをした後は必ず一瞬哲学的気持ちになるだろう、そう和男はその時も思った。
 さっきまで勃起し続けてきていた彼のペニスは元の通りに次第に収束していった。それを認めるや一回だけ君子は和男の仕舞い込まれていくペニスに唇を窄めてキスをした。和男のペニスは一瞬それに反応したが、再び勃起へと至ることを和男の意志が抑制した。きりがない。もう車の中で二回果てているのである。
 総一郎氏もペニスをズボンの中に仕舞い込み、君子が徐々にそこに来るまで身につけていた衣類を付け始めると、優しく彼女の髪の毛と頭を撫でて、項にそっとキスをした。夫婦の愉悦を手伝った形だった和男だが、後悔はなかった。いいものを見せて貰ったと思った。そういう機会を得ることで和男はまるで二十代の青年に戻っていくことは出来たように思えた。
 車の中は女の体液と男の精子の匂いに充満していた。君子は運転席にきちんと戻って一瞬足を上げてパンティーを上まで持っていき、それを深々と履くと、座り直し、サイドの窓ガラスを脇のボタンを押して開けた。外の空気は先ほどまでは締め切られていた側かも入ってきて、その時に充満していた三人の競演の空気を徐々に外気へと同化させていった。
 和男のペニスは満足しきっていた。尿道の辺りにむず痒くくすぐったい、あの固有の感じが先ほどまで自分が他の二人と共に快を求めていたことを証明している。
 辺りは急に晴れ渡ってきた。まるで三人の門出を祝っているかのようだった。
 その瞬間から徐々に少し離れた通りから聞こえる観光客の一群の立てる音が聞こえ出した。それまでは熱中していたので、一切の音が遮断されていたからだ。
 和男は
「二日間色々とお世話になりました。いい思い出が京都で出来ました」
と言って、その車から降りようとして、総一郎が再び性行為を終えて、座っていた車椅子を車から遠ざけるように目配せして、ドアを開けて外に出た。
「もうお帰りになられるんだったら、駅まで君子に送らせますよ」
と気を利かせてそう言ったが、また二人になると妙な気持ちにならないとも限らない。そこまで他人の夫人を巻き込むわけにもいかない、もう十分満喫させて頂いた、そう和男は思っていた。これは京都流のもてなしかも知れない、そうも思った。
「いや、私少し別の名刹も見てから今日夕方新幹線で帰宅することに致しますので」
と言って、車で京都駅まで妻に送らせようとした総一郎氏の好意を遠慮した。総一郎氏は
「そうですな、折角こちらにいらしたんだから、もっと色々と回られて心行くまで味わってからお帰りになられた方がええですな」
と、納得していた。
 和男は車の運転席にいる君子に会釈して総一郎にも深くお辞儀をしてその場を立ち去った。そして南禅寺の方へと向かって行った。

Saturday, December 12, 2009

翌日の本格的な競演(9)

 世の中にはたった三回しかセックスしていないのに六人の子供を授かった夫婦もあれば、千回セックスしても一人の子供も授かれない夫婦もあるだろう。その場合性行為そのものの持つ意味はまるで異なったものかも知れない。だが性そのものは回数とか儲けた子供の数で推し量れるものではないし、増してや複数の異性と一回ずつセックスをしてきた人と一人の異性と一回だけのセックスをして生涯を添い遂げた人とどちらが幸福であるかなど言い得るものではない。つまり全ての人が違うように、全ての人にとって性のあり方とは全く異なった意味を持っている。
 しかしそのことはあくまで客観的なことであり、その時の和男にとってはどうでもいいことであった。和男は君子がどういう行為に出るかだけを注視していた。
 全てのぺニスによる動きを男性郡がし終えた後、おもむろに窓の外の車椅子から半身を持ち上げていた総一郎と、総一郎が果てる前に必死に彼女を後ろから抱いていた和男の方に向き直って、自らの上気した乳房を晒して、今度は二人の男性のし終えた後のペニス、尤も夫の総一郎のものは今しがた果てた後だったので決して未だ萎みきってはいなかったものの、和男のものは今しがた目の前で他人の妻にその夫が後ろから車の窓越しにペニスを突立てるさまを眺めていたものだからすっかり自分自身で臨戦態勢であった時の威勢を失ってはいたものだからそれを慮って君子は早々に夫のペニスを舐め上げて、綺麗に尿道周辺に付着していた精子を唇と舌で拭き取ると今度は他人の和男のペニスを舐め上げて昨日のようにフェラチオをし始めた。いざそうされると即座に勃起した和男はそのさまで自分が未だそう衰えてはいないということを自覚せざるを得なかった。
 和男はまるで自分がそれまで他人の夫婦同士の殆ど変態的でさえある睦み事を観察していたことの褒美に自分のものを舐められているような意識にあった。
 和男は素早く自分のペニスを口元に含み、すっかり怒張したそれを再びすっきりさせようとしているこの君子という女性のしたたかさと配慮に行き届いていることに恐れ入っていた。ここまで微に入り細に入り配慮の行き届いた中年女性というものもそういるものではない。このことこそ未だ十分妊娠して子供を儲けることが可能であるが、同時に自分よりも年長の男性に対しても、恐らく和男よりもずっと若い男性に対してさえ同様に配慮出来るであろう、要するに最も人間的に旬な女性である、それは年齢的にもそうであるが、ある意味では彼女の年齢の全ての女性が決してそういう風にまでは行くまいと思わせるそれだけの度量があった。
 和男は相手のサーヴィスにすっかり安心しきって任せているとある瞬間途端に下半身に先ほど後ろから君子のコンの中にたっぷり精子を注入した時と似たあの固有の絶頂感を得ていた。今日はもうこれは自分で抜いた分を含めると三回も射精している。これ以上和男は明日の仕事のことも考えると、控えておいた方がいいとさえ思えてきた。しかし未だやっと十時になるかならないかの時間であることを何気なくちらと見た自分の腕時計を見て和男は悟った。
 君子は
「和男さんも総一郎さんと負けず劣らず優しいおちんちんの持ち主ですわね」
と言って、自らの中にたっぷりと含みこんだ彼の意気のいい精子を少しだけ唇の外に出して見せて、再びそれを一気に自分の舌の中に含み込ませて飲み込んだ。
 和男は嬉しかった。そして最早そうやって自分の妻が他人のペニスを頬張っていること自体を容認していること自体に平気で対応しているこの中年ではあるが未だ未だ十分異性の目を惹くに値する魅力の女性のもてなしを受けることを積極的に受け入れている自分自身に対して我ながら大胆にもてなしを受けている、そう感じていた。